最優秀賞2作品、優秀賞1作品、特別賞1作品は、サイトに全文を掲載します。

 

ここでは、優秀賞の凜太郎さんと特別賞の椙山 佳奈さんの作品全文をご紹介しましょう。

凜太郎さんには賞状と図書カード、椙山さんには賞状と賞品を授与いたします。あらためまして、おめでとうございます!

 

このコンクールは本を読んで思いついたことを作文にして送るスタイルです。そのため、本の結末が作文に書かれていることがあります。結末がふくまれる作文には★注意書き★をつけましたので、まだ結末を知りたくない方は、ぜひ本を読んでから作文をお読みください。

 ※応募者の作文は原則としてそのまま掲載していますが、表記ミスと思われるものを一部修正している場合があります。                       

 


優秀賞
 凜太郎さん 高3
  『デミアン』 ヘルマン・ヘッセ作 高橋健二訳 新潮社

 

 【作品】
 「私は自分の中からひとりで出てこようとしたところのものを生きてみようと欲したにすぎない。なぜそれがそんなに困難だったのか。」
 これはヘルマン・ヘッセ著「デミアン」の冒頭部分だ。一ページの真ん中にぽつりとこの文が置かれている。作者がどうしても伝えたい、大切なメッセージだというとは十二分に理解できる。ただ、何を伝えたいのかは、まだ読者は理解することができないのだ。そこが、この本の一番面白く、興味深い所だと私は思う。
 この話は、10歳の主人公シンクレールはごく普通の男の子だが、ある日、小さな罪を犯してしまう。そしてそれを理由に悪童クローマーに脅され、苦しんでいたが、町にやってきたデミアンという少年に救われる。デミアンは頭の切れる男で、シンクレールは彼のする話に沢山の刺激を貰った。しかし、やがてその刺激は大きくなってゆくシンクレールの心を包み込み、のしかかるように重くなり、 シンクレールの心を壊してしまう。といった内容だ。いわばシンクレールの心の記録とも言えるだろう。
 さて、そんなシンクレールの心を一番狂わせてしまった言葉が、物語の中盤に出てくる。「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという」
この言葉を目にしたシンクレールは、深い瞑想に沈み、このアプラクサスという、聞いたことも読んだこともない神の名に悩まされた。ここで一つ思い出してほしい。私がデミアンの冒頭部分に記載されていると抜き出してきた言葉を。そう、読者はこの、シンクレールを一番狂わせたこの言葉を目にして、初めて冒頭部分の言葉の意味を理解することができるのだ!
 冒頭部分と、中盤部分の言葉をリンクさせて、読み解いてみてほしい。作者の言う「自分の中からひとりで出てこようとした」ものだが、この「自分」は「世界」、「出てこよう」としているのは「鳥」。つまり、作者は、「自分」という「世界」を破壊しようとしている。続いて、「生きてみようと欲した」という言葉だが、これは「自分」を破壊しようとするもう一人の新しい自分である、「鳥」 になりたいという意味だと、私は解釈する。 さらに続いて、「なぜそれがそんなに困難だったのか。」と、作者は言う。どういうことか、「それ」とは、新しい自分となって生きること。「困難だった」というのは、新しい自分になることが、困難だったのだ。作者は、新しい自分に生まれ変わって、生きていきたいと欲したが、それが難しく、そうすることができなかったのだ。
 今までの解釈は全て、私が感じ取ったことの一部にすぎない。私は、このことに気付いた時、私自身、主人公シンクレールのように、深い瞑想に沈み、ヘッセの言葉に悩まされた。私は、この時、この瞬間、ヘッセがこの本に込めた力によって、シンクレールへと変わっていたのだった。いつの間にか、ヘッセはデミアンに、私はシンクレールへとなっていた。本の世界に引きずり込まれるという体験を、生まれて初めてしたように思えた。そこから私は「読者」ではなく「シンクレール」として、この本を読み進めていった。この本を読み終えた頃には、私は「シンクレール」という人物になってしまっていた。「シンクレール」から「読者」へと戻ってきた時、私は、ヘッセの真髄に触れたのだと、心の底から思った。
 私のこの稚拙な文章を読んで、「こんな解釈はおかしい」「変な部分や考えが多い」と思う人は必ずいると思う。分かっている。それでもいい。ただ、私は、私が感じたことを、もっと他の人にも感じてほしいと心から思っているだけだ。こんな紙の上に並べられた私の言葉だけでは、伝えられないことが山程ある。「デミアン」を読んで、ヘッセの心に触れ、一度でいいから「シンクレール」になってみて欲しい。そして感じてほしい。読み終えた時、自分の中の「なにか」が飛び立ってゆく感覚を。この本を初めて読んだ私のように。

 

   

特別賞
 椙山 佳奈さん 高3

『オリエント急行の殺人』 アガサ・クリスティ作 長沼弘毅訳 東京創元社

 

【作品】★文中に本の結末がふくまれています★

 

 真実は小説よりも奇なりとは言うが、今回私が書き記す出来事はまさにそれに当てはまる。これ以上に当てはまる言葉はないだろう。
 本当は書くつもりはなかった。真実を追う新聞記者を辞め、嘘でも人を楽しませる物書き となった私にも、物書きの定めというのか、魂というのか、はたまた新聞記者としての正義が残っていたのか。いや、それとはまた違った衝動に駆られたのだろう。きっと。
 誰もが口をつぐみ、隠された真実はそこで終わるべきだったのだ。分かってはいるが、あの残忍な男の死を思い出すと惨劇の当事者であったあの人たちがあのときなにを思い、どうしたのか、誰かに伝えるべきであると思ったのだ。なにを感じ、死をもたらせたのか、社会は知るべきだろう。
 もう時効だ、そう思い筆をとる。あのときは許されずとも、今なら、今なら、と。

 

 あの日は寒かった。それは今と比べると、ということで、あの地方では別段珍しいことではなかった。
 僕はオリエント急行に乗り込んだ。パリへ帰るためだ。
 アテネ―パリ車両に乗り込む。先にコンパートメントに荷物を置いてもらい、後から用意 されたコンパートメントに足を向ける。途中、一緒にパリまでをともにするであろう人たち と狭い廊下ですれ違う。彼らはパリでなにをするのだろう。僕と同じで気が知れた我が家へ 帰るのだろうか。それとも観光か、などと少し考えながらコンパートメントへ入る。
 そこから今歩いてきた駅を見る。雪が降り積もり、一面真っ白となっていて、そこに人が通りかかるとキャンバスに絵の具を垂らしていくように白が消えていく。そんな景色を見ながらふと視線を少し上へ向けると、そこには中年の女性がなにやら車掌と話をしていた。 晴れやかな顔つきのがんじょうな中年の女である。
 パチンと何か頭の中で音がした気がした。はて、見覚えがあるような気がする。更にいうとその女性が話すのを横で聞いている車掌の男にも見覚えがある気がする。しかし、雪が積 もったこの駅と同じように頭の中は真っ白で、彼らに関する情報がなにも引き出せない。歳 かな、なんて思い、思い出せないのならさほど重要なことではないと思い出すことを切り上 げた。
 それからしばらくして、駅の人がまばらになっていった。けたたましく汽笛が鳴ったかと 思えばエンジンが叫びをあげた。すると車掌が外で大声をあげる。
ご乗車くださあいアン・ヴオワチユール
 もう一度汽笛が鳴り、少しするとガタンと列車が揺れた。肘を少し壁にぶつけたが、こうしてオリエント急行は発車した。

 

 発車からどれくらいたっただろうか。私は食堂車へ向かった。正直なところ、コンパートメントでひとり、残った仕事をするのに飽きていた。いつからこんなにも集中力が落ちたかなと思いつつも、自分のコンパートメントを出る。
 僕がいる車両から食堂車に行くためには、隣のロンドン行きの車両を通らなくてはいけない。途中、車掌控室で座っていた車掌に会釈して狭い廊下を歩く。食堂車のドアを開けるとまだ早い時間だからだろうか、人はまばらだった。
 最初に部屋へ向かった時にすれ違った同じ車両の男と、数名のグループが何個か、そして 身分の高そうな夫婦が奥の席に座っているくらいだった。
 僕は同じ車両の男性が座っている端の席の隣のテーブルについた。すると車掌が寄ってきて
「まだ早い時間ですが、何かご用意しましようか。」
と、聞いてきた。僕は辺りを見回した。僕以外の人たちは一人二人が食事しているくらいで殆どがお茶をすすりながら談笑していた。おなかに具合を聞いてみるが、特に何か食事をし たいわけではないらしい。
「いや、何か飲み物をいただこうかな。そうだな、紅茶。紅茶でいい。」
「承知いたしました。お茶請けに何かいかがでしよう。」
「そうだな。まぁ、任せるよ。」
「かしこまりました。」
 少し腰を折り、その車掌は奥へ去って行った。
 読みかけていた本を出し、続きを読んでいると五ページ目にさしかかったあたりでさっきの車掌がお茶と数枚のチョコレートを小皿に入れて持ってきた。
「失礼いたします。」
「ああ、ご苦労。」
 そう言ってテーブルに目的のものを置いて車掌はまた奥へ去って行った。
 出された紅茶をすすりながら、本の続きを読む。ふと本から視線を外して隣を見ると、男がこちらを見ていた。そして僕と目が合うと席を立ち、こちらに歩いてきた。
「ご一緒してもいいかな。」
「ええ、かまいませんが。」
 そう言うと、男は向かいのイスに座った。
「いえね、この列車に一人で乗ったものですから…」
「ああ、話し相手が欲しかったと。」
「ええ、そうなんです。」
 僕が返すと苦笑しながら男が答える。まあ、印象は悪くない。
「あなたはなぜこの列車に?」
「出張が終わって、家に帰るところなんですよ。あなたは?」
「僕もです。仕事帰りですよ。一人でこの列車に乗るなんて、寂しいですよね。」
「それはそれは。いや、話しかけたはいいけどあなたが誰かを待っていたらどうしようかと 思いましてね。」
「ああ、わざわざ食堂車で本を読んでいたから。」
「ええ。そうです。」
「コンパートメントで仕事をしていたのですが、気分転換にね。出てきたんですよ。」
「それはそれは。大事ですよ。」
「というのは建前で、サボっているのとあまり変わんないんですが。」
 僕がそう言うと、男はフフフと笑った。
「いやいや、大事ですよ。効率を考えればね。」
「ですよね。」
 そんな話をして、彼はロバート・ヘッパーマンと名乗った。宝石商で、いろいろな国に出張に行くことが多く、恋人を作る暇もないと嘆いていた。男の僕が言うのも何だが、彼は顔立ちが端正で好青年といった風貌だし、話していて退屈しない男のようだから、わざわざ恋人を探さなくても引く手あまたな気がするのだが。そう言うと彼は、
「ははは。ありがとう。でも、出張が多くて一年で数えられるほどしか一緒にいられない恋人なんて願い下げだろう?そういうことさ。」
 と、これまた好印象な笑顔で言う。確かにそうだな。
「君は?どうなんだい?恋人はいないのかい?ええっと…」
そこで僕は、彼の話ばかり聞いていたことに気がついた。
「トーマス。トーマス• ロックスだ。物書きをしているんだ。とは言っても全然売れないんだけどね。ええっと、何だっけ。ああ、恋人だっけ。僕にもいないよ。君みたいないい男にいないのに僕にいるわけないじゃないか。」
「そんなこと言うなよ、トーマス。お互い、独り身で寂しい列車旅だな。」
「でも、そのおかげで好青年と話せるんだから、独り身も悪くないかな。」
「はは。それは光栄だな。周りは殆ど同伴者がいるから少し寂しかったんだ。確かに今回ばかりは独り身に感謝かな。」

 

 ロバートは終始いい男だった。話題は尽きないし、綺麗な イギリス英語クイーンズイングリッシュ を使う好青年。まだ少ししか話していないのに、僕たちは古くからの友人のようにいろいろなことを話した。お互いちょうど話し相手が欲しかったというのもあっただろう。だが、それを抜きにしても僕たちは話が合った。
 そんな彼がこの列車の乗客についてという話題になってから、興味深いことを話し始めた。
「そういえばこの列車に、有名な人が乗っているのを知っているかい?」
「有名な人?」
 僕は最近読んだ新聞を頭の中に浮かべ、彼の言う、有名な人をあててみることにした。舞台俳優や小説家。有名会社の社長など、いろいろ思い浮かべては、違う気がしていた。
「有名な人って誰のことだい?」
  僕はお手上げの意味で両手を挙げながら彼に聞いた。
「ポアロだよ。ポアロ。エルキュール•ポアロ。」
 その名前は知っていた。確かに紙面にも登場していたなあと思う。
「何か事件でもあったのかい?」
 そう聞くと、待ってましたと言わんばかりに彼はほほえんで、もったいつけたように言う。 「実は、そうではないんだ。」
「というと?」
「隣の車両で人が殺されたという騒ぎがあったらしいんだが、ポアロはただ遭遇しただけらしい。呼ばれてきたのではなく、彼が事件を呼んだんだよ。」
 こう、早口でまくし立てた。
「でも、そんな騒ぎ、本当にあったのかい?誰もその話題を口にしていない気がするのだけ ど。」

 と言いながら、僕は食堂車を見回した。先ほどまで奥の席に座っていた夫婦がいつの間にか いなくなっていたが、他には特に違いは見られない。そして他の乗客が僕らと同じような話 をしているようにも見られない。
「そりゃ、そうさ。後から来た客にわざわざそんなこと伝えるものか。それに犯人は外部犯でもう列車には乗っていない。」
「君も後から乗った客だろう?やけに詳しいな。」
「この列車に乗るときに警察がいたんだ。」
「おい。盗み聞きしたのか。」
「違う違う。勝手に聞こえてきたんだ。」
 彼は相変わらずの好青年顔で何事もないように笑う。
「パニックになるから車掌もなにも言わないんだろう?他の乗客には言うなよ?」
「当たり前さ。それにこの旅は一人旅なんだから、言う相手もいないよ。」
「でも僕には言っただろう?」
 そう言うと彼は大丈夫大丈夫、言わない言わないと言った。本当に言わないだろうな。
 彼には言うなといったが、僕はだいぶ興味をそそられていた。ポアロがいる中で起きた殺 人事件で、あの彼が犯人を警察にまかせたなんて信じられなかった。彼にとても詳しい訳で はないが、新聞を読んでいる限り、頭の良い人間であると言うことはよく分かっていた。
「どういう事件だったのだろうか。」
 ふと疑問に思ったことが口にでていた。
「君も気になるんだろう?トーマス。」
「まあ。それなりには。」
「フフフ。そうだなあ。続きがあるんだ。もちろん。」
 彼はやはり好青年の笑顔で答えた。
「事件の概要だが…」
 コホンと咳払いをして芝居がかったように彼が話し始めたときだった。
「オーダーはありますでしょうか。」
 車掌が注文を取りに来た。時計を見ると、もう夕食の時間で、周りを見ると空席が目立っていたはずの食堂車は客でいっぱいだった。どうやら熱心に話しすぎていて、全然気づかな かったらしい。
「もう、こんな時間か。夕食をいただこうか。」
 彼はそう言って、車掌にオーダーを始めた。
「君はどうする?トーマス。」
「もちろんいただくよ。」
 こうはいってみたものの、本当は夕食そっちのけで彼の話の続きが聞きたくて仕方がなかった。そんな僕の胸の内を知ってか知らずか彼は運ばれてきたものをおいしそうにほおばっている。
「やはり、一人で食べるよりよっぽど良いなあ」
 嬉しそうな彼を見ながら僕も料理を口に運ぶ。
「なんだい。ははあ、さっきの続きが聞きたいと。そう言う顔をしているね。トーマス。」
 彼は手を止めて僕に言う。
「大丈夫、大丈夫。話は逃げないんだから。今はこの夕食を楽しもう。」
 そう言ってまた食べ始めた。
「夕食が終わったら、君のコンパートメントに行こう。一等だろう?そこでゆっくり話をし ようではないか。」
 さっきの続きだと言わんばかりに彼は芝居がかった口調で言う。僕はそんな彼に苦笑しながら分かった、そうしよう。と答えた。

 

 夕食が終わり、二人で僕のコンパートメントに向かった。もちろん彼からこのオリエント 急行で起きた殺人事件について聞くためだ。彼は行きがけに車掌を捕まえて、僕の部屋にミ ネラルウォーターを持ってくるように言いつけた。
 コンパートメントに着いてしばらくすると車掌がミネラルウォーターを持ってきた。
「さて、準備は整った。それでは話そうか。」
 彼は相変わらず、芝居がかった口調で話すようだ。
「まず、この列車は僕らを乗せる前に積雪にぶつかって止まったんだ。ヴィンコヴチとブロ ドの間でね。そのとき事件は起こった。ポアロの隣のコンパートメントにいたラチェットと いうアメリカの老人が殺された。刺殺だ。しかも体中を十数力所も刺されてね。」
 ここで一度彼は傍らのミネラルウォーターを一口飲む。
「それで、それでだ。その傷は強い力と弱い力とでできていたんだ。きっと複数犯しかもニ人目の方はもう死んでいることに気づかずに刺したんだろう。きっと、そうだろうな。まあ、 そんなことで、ポアロは乗客一人一人に聞き込み調査をしたらしい。殺された男の召使や秘書はもちろん、公爵夫人やそのメイド、ハンガリーの外交官夫妻までね。」
 ここまで聞いて、ああ、さっき食堂車にいた高貴そうな夫妻はこのハンガリーの外交官夫妻 だったのだろうか、と考える。
「でも、それでもついに明確な犯人らしき人物は現れなかったんだ。途方に暮れているとこ ろで、ある真実がもたらされる。」
 彼はカッと目を見開いてもったいつけた。
「何だと思う?」
「僕に分かるわけないだろう?」
 僕が半ば投げやりに返すと彼は満足したように笑って口を開いた。
「その、殺されたラチェットという男、その男は実は、殺人鬼だったんだ。名前を変えて悠々 と生きて、この列車に乗っていたんだよ。」
「それで?」
 だいぶ話が面白くなってきた。僕は彼に話を催促した。
「それがどんな事件かというとね、アメリカで起きた残忍な誘拐事件なんだよ。とある夫婦 の娘が誘拐されて、殺されてしまった。その後も悲劇が続き、多くの人が死んだ事件だった。」

 そこまで聞いて、僕は驚いた。彼が言っているのはもしかして、いや、そんなことはない。 そんなことはあってはいけないのだ。
「アームストロング幼児誘拐事件だ。その犯人だったんだよ。死んだ男は。」
 それを聞いて、僕はどんな気持ちになっただろう。想像できるだろうか。いや、できまい。 事件の当事者以外にこのときの僕の気持ちは分かるまい!
「そうか、そうか。あの男か。あの、あの残忍なあの男だったのか!カセッティ!」
 僕は彼の話しているのを思わず遮ってしまった。
「どうしたんだい!そんなに取り乱して。ああ、ああそうだ。殺された男の名はカセッティ だったよ。」
 不思議そうにしている彼をほっぽって、僕は思考の渦に巻き込まれていた。なぜ、なぜあの男はこのオリエント急行で殺された?何か、何かがこの渦を、思考の霧を晴らしてくれそう だった。しかし、決定的なその何かをこのときの僕は持ち合わせていなかった。
「どうしたんだい?大丈夫か?」
「ああ、すまない。大丈夫だ。」
「この男は君の知り合いだったのかい?」
「知り合い?知り合いであってたまるか!こんな男。」
 僕は彼にこうまくし立てた。すまない、と彼に謝り、なぜ僕がこんなにも声を荒げているのか話すことにした。

 

「僕は、今の職に就く前、新聞記者をしていたんだ。新聞記者なら真実を、世の中に起きていることをはっきり見ることができると思ったんだ。しかもそれを余さず社会に伝えられるなら、そんなに良い仕事はないと思ったんだ。実際、僕にこの仕事は合っていた。あの事件に、君が言ったアームストロング幼児誘拐事件にあたるまではね。残忍な事件だった。どうしてこんなことができるのか、僕には分からなかった。調べて伝えるのが僕の使命だと思 っていたから、調べて調べて調べ尽くした。なにが起きているのか。どうして起きなければならなかったのか。そして、警察は優秀だね。そんな残忍な犯人を捕まえた!ああ、正義は存在するのだと思った瞬間だったよ。しかもこの男は他にも数件、同じような事件を起こし ていた。許されざる男だった。だったはずなんだ。けれど、そうはならなかった。やつは証拠不十分と保釈金で出てきたのだ!絶対にあの男がやったに決まっているのに、だ。このと きは呪ったよ。全てを。記者としてこの事件に触れたからね。他人事とは思えなかった。今まで様々な事件を追ってきたが、これほど残忍なやつはいなかった。これほど悲しい事件は、 憤慨した最後はなかった。僕はさっき言ったとおり、信じていたからね。真実に一番近い場所できっと社会に伝えられると。でも、できなかった。こんなにも絶望したのは後にも先にもこれだけだろう。言い切れる自信があるよ。まあ、だからその、絶望して辞めたんだ。これが僕が新聞記者として最後に触った事件なんだ。真実だったんだ。だから、驚いた。あれは最後じゃなくて、まだ続きがあった。ラチェットはこのオリエント急行で死んだ!しかも、誰かに殺された!ああ、ああ。」
 僕はまくし立てた。過去、これほどまでに憤慨したことはあっただろうか、ショックを受けたことはあっただろうかと思いつつ、叫ぶように彼に話した。
「そうか、そうか。君にもつらい事件だったのか。さあ、さあ、水を飲みなさい。そして、 今日はもう休んだ方が良い。ゆっくり考える時間も、休む時間も欲しいだろう。また明日、 様子を見に来るよ。」
 そう言って彼は僕にミネラルゥォーターを差し出し、自分はコンパートメントを出て行った。

 

 翌日、彼が僕のコンパートメントを訪ねてきた。
「調子はどうだい?」
「ああ、大丈夫。すまない。心配をかけた。」
「いや、いいんだ。しょうがない。あんなことがあったなら、しょうがないだろう。」
 本当にすまない。そう返すしか僕にはできなかった。
「でも、こうなったら真実を知るべきなのではないか?今度こそ。」
「ああ、僕も考えたんだ。だが、ポアロに会うのは難しいだろうな。普通に乗客としてなら会って話もしてくれるだろうが、事件のことは話してくれまい。」
 そう。真実を隠し通したい何かがあったのだろうとあの後、彼が帰った後に考えていたのだ。 ポアロだけでなくあの車両に乗っていた者が全員口をつぐんだことになるのだから。何かあるのだろう。きっと。
 そう考えている内に、ギギギッと列車が止まった。ああ、駅に着いたらしい。
「トーマス、外に出よう。気分転換は大事だろう?」
「ああ。そうだな。」
 僕は彼の提案に同意した。そして二人して外に出る。外は変わらず雪が積もった景色である。
「あまり、代わり映えしないなあ。」
 彼が、思わずこぼす。
「まあ、仕方ない。一日じゃそんなに景色は変わらないだろう。」
 彼をたしなめていると、ふと、視界に老婦人が映った。それも、なんとも醜い顔である。しかし、何か惹かれるものがあるのも事実で、失礼と思いつつ、見入ってしまう。幸い、老婦人はこちらの視線に気づいていないのか、メイドらしき女と話し始めた。
 そのときだった、パチンと頭の中で音がした。そう。昨日と同じ感覚だった。見覚えがある。あの老婦人もメイドも。あと少しで何かが見えそうなのだ。しかし、何かがたりない。またしても何かたりないのだ。そんな僕に彼は話しかける。
「綺麗な人がいるなあ、なあ。そう思わないか?穏やかそうで。」
「どの人だ?」
 僕は一旦考えることを中断して、彼の言葉に耳を傾けた。
「あの人だよ。あの人。イギリス人かな。」
そう言って彼の向けた視線を追うと、安定感があって、頭の切れそうな少しきつそうな、女がいた。
 僕は彼女を見たとたん、全身に電流が走ったような衝撃に襲われた。そうか。そういうことだったのか。なぜ、ポアロが黙ったのか、乗客全員が黙ったのか、分かった。分かってしまった。
 しかし、それと同時に、これを彼に言ってはいけないとも思った。真実を知ったが、何のために彼らが口をつぐんだのか分かったからだ。いや、きっと話せば彼も賛同し、一緒に沈黙してくれるだろう。彼はそういう男に違いない。しかし、僕にはできなかった。沈黙すると言うことは、殺人を見逃せと言うこと。一緒に十字架を背負ってくれなんて言えないじゃ ないか!僕は彼をいい男だと、好青年だと思っている。昨日会ったばかりだが、僕は彼にそんな評価を下していたから、一緒につらさを味わって欲しいなどと言えなかった。言えるわ けがない。
 昨日見かけた顔つきががんじょうな女と車掌、今目の前にいる醜い顔の老婦人とそのメイド。そして、少しきつそうなイギリス人の女。彼らに見覚えがあった。思い出したのだ。あの事件の資料にあった顔だった。全員。
 彼に断ってから、車内に戻る。そしてロンドン行きの列車を通って食堂車に向かう。途中ですれ違った男にも見覚えがあった。そして、食堂車で席に着き辺りを見回す。昨日の夫婦が昨日と同じテーブルに着いていた。その、妻の方。よくよく見てみると、面影があった。 僕が知っている顔に。別のテーブルに着いている男数人にも見覚えがあった。
 車掌が来て、オーダーを求めてきたが、それを断り僕は自分のコンパートメントに戻った。
 
 十数力所の刺し傷と、あの悲惨な事件の関係者、十三名。ああ、そうか、きっとそうだったのだ。僕は真実にたどり着いた。たどりついてしまったのだ。それなら、全員にアリバイがあっておかしくないし、誰もが口をつぐんだ理由も分かった。そう、各人がかわるがわるに突き刺したのだ!あの残忍な男を。そうすれば、力のかけ方が異なる傷にも説明がつく。 そうか、果たしたのだ。あのときの悲しみを、憤慨を各々のふがいなさを、全員が一人ずつ刺すという方法で。
 真実を知ってしまい、僕はもちろん動揺した。そして、社会に知らせることはかなわないと分かった。そして、幕を閉じたこの事件に水を差すことがないように祈った。あの男はもういない。悲惨なことはもう起こらないと、そっと胸をなで下ろし、目を閉じた。もう霧は晴れていて、一緒に僕の心のとっかかりも持って行ってくれたことに気づき、目を開けた。 すると、汽笛が鳴った。かと思えばエンジンが叫びをあげた。すると車掌が外で大声をあげる。
 ご乗車くださあいアン・ヴオワチユール
 もう一度汽笛が鳴り、少しするとガタンと列車が揺れた。また、オリエント急行は走りだした。発車のベルは軽やかに耳をかすめていった気がした。